君の状況が少しは分かるかもしれない
始業式の翌日はしんどくて休みがちだった
中学生・高校生の私であればきっと始業式の翌日は学校を休んでいた筈だ。
長期休みが終わるのが怖くて怖くて、23:00に布団に入っても3:00頃まで眠りにつけず、5:45にうっすら目を開けて絶望し、意識を浮き沈みさせながら7:00を過ぎたところで飛び起きただろう。ぐるぐると目を回しながら制服を着て、鞄の中を適当に整理しスマホと定期と財布を確認。父に半泣きになりながら駅まで送って貰うようお願いし、車の中で靴下を履いて、血が引くような頭の感覚に目を瞑りドアにピタリと寄りかかる。毎度のことながら礼を伝えて、車からホームドアまでの数十歩・数十段をダッシュして満員電車に乗り込む。胸につかえる呼吸のしづらさに、表には出てこず主張だけは激しい涙、薄く唇を噛んでようやく学校に行く腹を決める。
バクバクと派手な鼓動に整わない息、冷や汗が止まらないまま吊り手を掴んだ腕に頭を預けて、頭が真っ白になっているのに耐える。朝の荒い電車の揺れによろけて人にぶつからないように、足の配置と頭の位置に意識を割いて、手すりをしっかり掴んで乗り換え駅に着くのを待つ。
二つの乗り換えは、時間に余裕が無いために毎回ダッシュだった。走れないときは人にぶつからない程度に早足で歩き、電車がまだ着いていない場合は降りるときに少しでも目的地に近くなるよう移動した。同じく呼吸が乱れ、かなり動機もドキドキである。ここで頑張らずに遅刻することになるのが嫌だったのでいつも全力だった。後で「乗り換えで頑張らなかったから……」と思うのが目に見えていたからね。
そう、もちろん最寄り駅から学校までもダッシュである。駅から徒歩で15分ほどだったろうか、とにかく走り、息が切れて苦しくなったら少し歩く。歩いている途中も遅刻の恐怖は消えないのでまたすぐに走り始める。校門で教師に挨拶をし、下駄箱まで走り、上履きに履き替えている時間は無いので手に持って走る。チャイムをBGMに階段を走る。だいたい鳴り終わったくらいの時間に教室に入り着席する。
着席すると幾度目かの血が引いていく感覚がやって来るが、これ以上の改善は特に何も望めない。学校に来たからにはきちんと授業を受け、食べれるだけお弁当を食べて帰宅する。
食べ残した弁当を冷蔵庫にしまい、ゴロゴロしながらスマホをいじり、夕飯に出して貰ったおかずと残りの弁当を食べて、入浴という重労働をこなし、明日の朝を不安に感じながらやはり早めに布団に入る。あいも変わらず寝付けずに布団の中で瞼の裏を眺め、目を瞑ることに疲れて天井や壁を見る。
そして翌朝、体の重さと頭痛にうなされながらギリギリまで時計を眺め、行けるかどうか悩んで悩んで行かないことに決めるのだ。頑張れば行けたかもしれないという罪悪感に苛まれながらな。
これが新学期2日目のからくり。
今は割と楽に普通の生活をしている
何が言いたいかというとね、君の状況が少しは分かるかもよということだ。そして、この経験の上でいま生きて呼吸をしている。
二十歳の今、普通に生活している。4年かかったけど高校を卒業して、1年浪人したけど大学にも通っている。駅まで歩いても息は上がらないし、急に冷や汗もかいたりしない。長く座っていても大概はしんどくならない。電車で座れないことが不安になることも最近はない。チャリだって気持ち悪い思いをせずに乗っていられるし、通学路が長く感じられて遠い目をしながら帰路をとぼとぼ歩いたりもしない。自分のことを恥ずかしくも思ってないし、人より時間が掛かったことも取り返しがつかないことだとは思ってないよ。自分が納得していれば良い筈だもの。
ちょっとは安心した? 真っ黒なフィルムが入っている映写機がずっと回っているような将来しか当時の私は思い浮かべられなかったから、もし似ているのならば少しは君の参考になると良い。とはいえ私の場合そんなロールモデルを知りたかった気持ちは二割だけで、残りの八割は知りたくなかった。ずっとスマホをいじっていたけれど、起立性で検索したことも両手で数えられるほどしか無いと思う。
「治んねーよ」と思っていた私と、変化を求めてここへ訪れた勇気ある君
治ると思えていなかったし、大げさにいえば治りたくなかったのが理由だ。どこからが病気のせいでどこからが自分の責任なのか整理できていなかったから当時は治療に積極的ではなかった。周りから「サボり」だと思われていることはヒシヒシと感じてたし、自分でも「ただサボっているだけではないか」「人が出来ていることが出来ないのはやはり頑張りが足りないからではないか」と心のどこかで考えていた。不調に悩まされず生活する様子を忘れていたから、治ることを具体的に信じることが出来なかった。慢性的なしんどさはそのままに病院の先生から「起立性の症状はもう出ていない」といわれることが怖かった。
ふてくされて「治んねーよ」と思っているところへ「起立性調節障害」で検索すると、「整体に通って二ヶ月で治る」という記事や「不登校」「早く治す」「治し方」「原因」「遊びには行ける」「起こした方がいい」というサジェストが目につく。症状はどうにもならないと思っている自分とどうにかしようと考えている親との考えの乖離が如実に表れているようで、見るのが苦痛だったんだよね。「何にも分からないくせに」と。
だから、まずは変化を求めてここに辿り着いた勇気あるあなたに称賛を。ここに来るまでには、自分が取り組んでいない療法・親の苦しみの記録・毒にもならないが薬にもならない慰め・理解のない意見なんかを少なからず目にしただろう。時には心臓が縮まるような気分も味わったかもしれない。ここの記事は現実的にあなたの役に立つことを願っているけれど、私の経験や試行錯誤の結果も絶対に正しいとは言えないから取捨選択をしておくれ。
ひとつ、検索するときのアドバイスだが、検索ボックスにワードを入れる際、最後に「go.jp」を入れると公的機関からの発信が優先的に表示されるのでおすすめしておく。同じく「ac.jp」は大学病院など大学からの情報が優先的に表示される。どちらにせよ優先表示というだけで絶対ではないので注意が必要だ。必ず発信元も確認すること。これは起立性に限らず、他の病気のことを調べるとき等にも役立つから覚えておくと良いと思う。がんなど難治性であるほど、悪意を持った発信者が増えるようだからね。
そして、知りたいことがあったり、仕入れた情報があれば必ず主治医の先生によく相談しておくれ。そのために専門家がいるのだから。
本題:「頑張らなくていい、問題に対処しろ」
さて、君への理解が多少はあるかもというアピールが大変に長くなってしまったが本題に入ろう。「頑張るのではなく、いま目の前にある問題に対処したら良いのでは?」という提案だ。順を追って説明しよう。
目の前の問題に対処するのに必ずしも症状の改善・完治は必要としない
上でも述べた通り、当時私はこの症状が治る気がしていなかった。君の主治医の先生もきっといつ治るとは明確に断言はしていないのではないかと思う。日本小児心身医学会HPでも、適切な治療のもと軽症例では2~3ヶ月で改善するが、重症例では社会復帰までに2~3年以上を要するとしている1。実際私の場合、社会復帰に難を感じていたのは4年程、軽く症状が出始めてから不調が気にならずに生活出来るまでには8年程の時間を要している。
治る自信も無くいつ治るかも分からないのでは暗い気持ちにもなろう。以前までは簡単に出来ていたことが出来なくなっているのでは自尊心も削られよう。治療も一行えば一返ってくるようなものに感じられないのでは投げやりにもなってしまうかもしれない。しかし、問題は依然として目の前に横たわっている。この“問題”について詳しく分解してみよう。
問題とはこの場合「やらなければならないこと」と言い換えることが出来るだろう。やらなければならないと認識していながら目処もつかず処理できていないことがストレスなのだ。ならばなぜやらなければならないのか? それは何か大目的となる「やりたいこと」があり、その実現のために処理が必要だと考えているからだろう。つまり、より詳しくいえば“問題”とは「やりたいことを実現するために、やらなければならないこと」という訳だ。
ここまで分解すると、“問題”に対してもっと柔らかな認識が出来ることが分かる。やりたいことを実現するためであれば、“問題”はその設定も解決方法も己一つでデザインすることが可能な筈だ。であれば、問題を解決することは必ずしも病気の改善・完治を必要としない。問題を対処するときに求められるのは自己理解と戦略と調整だ。
例えば美術館の特別展に行きたいとしよう。休日に行こうと考えているが、「土曜日に出掛けたとして日曜の一日で回復は足りるのか」「日曜に出掛けるのならばなおさら月曜日の学校に回復は間に合うのか」ということを考える必要がある。これは自己理解の一環だね。
1日では回復が足りないため、他に支障をきたさず土日に行くのは難しいという結論が出たとしよう。では、十分に回復ができるだけの休みが確保できればよいのではないか。学校の予定表を見て、祝日など三連休以上になっている予定を探す。展示の会期・休日と照らし合わせて候補日を決定、当日の様子を具体的に想像する。
「朝は現実的に何時に起きられるか・出られるか? 電車を調べておこう」
「前日はちゃんと眠れるだろうか。寒い中寝るのは首肩が緊張してしまいがちだから、勿体ないけど寝る前に部屋を暖めてみようか」
「朝は食欲が湧かないだろうから食べながら行けるようなものを用意しておこう。早起きするのは現実的でないから前日迄に」
「到着する頃には昼食の時間になってしまうので外で少し食べよう」
「次の日疲労が出るだろうから早めに寝たほうが良いだろう。入浴準備を先に済ませておいて、眠くなるように当日の体調で湯船に浸かれたら浸かろう」
という、このようなことが戦略だ。
そして調整とは自分で事前に準備をすること、周りの人に知らせたり協力したりしてもらうことだ。今回の例で言えば、朝食と昼食を普段用意して貰っているのであれば不要なことを伝える必要がある。また、「当日持っていく水筒に温かい飲み物を用意したいけど自分が朝用意するのは現実的でないな……」というときに自宅にいる人にお湯を沸かしてポットに入れておくようお願いすることが出来るかもしれない。
一方で、協力は必ずしも取り付けられる訳ではないと認識しておくことも必要だ。誰であれ君のことを思い通りにすることが出来ないように、君自身も誰のことをも(例え親であっても)思い通りに動かすことは出来ないのだから。必要なことは可能な限り自分で処理し、頼みごとは叶えてもらえなくても仕方がないと理解すると狼狽えなくて済む。あなたのやりたいことに付き合う義務は誰一人として無い2。
問題の設定・対処方法は適切か? 掲げている目的は本当に「やりたいこと」か?
問題が目の前に横たわって対処できていないとき、原因は二種類に分けられよう。一つは上に挙げたように問題の設定や想定する処理方法が適切でないとき。もう一つは大目的や中目的が適切でないときだ。つまり、掲げている「やりたいこと」は「本当にやりたいこと」では無い可能性がある。
学校、本当に行きたいですか? 三年で卒業することがあなたにとってそれほど重要ですか? 6:00に起きて生活できるようになりたいですか? 大学に進学したいですか? 勉強そんなに頑張りたいですか?
周りに言ったら怒られてしまうような結論かもしれないけど、自分に対して物分かりが良いフリはしない方がいい。誰の目を気にしているの? やりたいこと・やりたくないことに嘘をついていると何のために生きているのか分からなくなるよ。何のために生きてるって、まずは君が楽しく生きるために決まっているだろう3。やりたいこと・やりたくないことに向き合うことは自分の人生に向き合う第一歩だと感じている。誰かの言うことを聞いても、その人が人生のケツを持ってくれる訳では無いから。
しんどい状況を圧してまでやりたくないことをするのは難しいだろう? 自分のやりたいことを改めて精査してみると良い4。学校とか仕事とか大きなことに限らなくて良い。海に行きたいとか漫画の最新刊読みたいとか、世俗的な方が正直情熱的に取り組めるよね。私は美味しかったハンバーガー食べるためだけに遠出したことあるよ。目的さえ適切であればきちんと処理するためのエネルギーは湧いてくるはずなのだ5。
無策無謀に「頑張る」のではなく、替えの利かない自分の体と上手く付き合う
最後に「頑張らなくて良い」の意味について。
まずごく淡々と状況を評価するから、できれば捻くれずに受け取ってね。
症状が出る前は10分連続して歩くことがしんどいなどということは恐らくなかっただろう。つまり体力のキャパシティは少なからず縮小している。この縮小した範囲は日によってまちまちなこともあり、当事者である自分にも正確には理解できていない──合っているだろうか。
頑張るという言葉を「普段よりも出力を上げる」「多少無理してでも動く」という意味合いで私は使っていた。
この「普段よりも出力を上げる」ということと自分の体力のキャパシティを把握できていないことが大変に相性が悪いように思う。どれだけ出力を上げれば限界値を突破してしまい、それによりどれだけのダメージを喰らうのかが分かっていない状況で出力を上げるのは、無謀というものだ。
車の例で例えてみよう。
生涯替えることができない自分の車があるとする。昔はそれなりに走ることが出来たが最近調子が悪い。速度が出辛かったり、走行中に変な音がしたり、速度を出した後数日は殆ど動かなくなったりする。この車で目的地まで向かおうとするが今まで一緒に走っていた人たちのようには走れていない。
「頑張る」を車の例で表現するとしたら「速度をあげること」「走行が難しそうなときに車を動かそうとすること」にあたるだろう。そのときの適正範囲を超えて速度を上げた結果、数日間車が沈黙する。無理矢理車を動かそうとして故障が生じる。
何かを間に合わせるために「頑張る」場面はもちろんあるだろうが、リスクを承知しておく必要がある。旅に生じるリスクも、車体に生じるリスクもね。不格好でも継続的に車体を動かす方法を知っておくのも気が楽になるのでおすすめ。
生涯替えが利かない車とはすなわち体のことだ。よく理解して上手く付き合っていくしか無い。すなわち「無謀に頑張るなんてことはしなくて良いから上手く自分と付き合っておくれ」ということだ。失敗もするだろうが、それも経験値にして次に活かしておくれ。
上手く付き合うというのは現状維持だけでなく、タイミングや時間の試行錯誤や、散歩して体力回復の観察をしてみることなども含む。人間の体は可変なのでできることは他にもあるはずだ。
まとめ
しんどい10代を過ごしたけれど、今はかなり楽に生活ができている。自分は未来の展望が見えなかったから私の例が少しは君の参考になると良い。
しんどい中でも問題は目の前から消えてくれない。問題とはただ「やらなければならないこと」ではなく「やりたいことを実現するために処理しなければならないこと」であって、やりたいことを見失わないでいれば柔軟に問題の設定・対処が出来るはず。従って、問題の対処には必ずしも症状の改善・完治を必要としない。一方で「やりたいこと」が適切かどうかも改めて考える必要がある。自身が本当にやりたいことであれば、活力は湧いてくるはずだ。
自身のキャパシティを把握できていない中で「頑張る」のはリスク管理が適切ではなく無謀なことだと考える。出力を上げたり無理をしたりするのではなく、替えの利かない体と上手く付き合うことが重要なのではないか。
「自分が線引きをしてしまっている素敵なこと」=天を「自分が生活する世界」=地に引きずり落とすこと・それを目指して楽しむことがこのブログ「天を地に落とす」のコンセプトである。
今回の記事も半分ほどはまっすぐコンセプト通り、もう半分はその前提のような部分だ。「地を愛す」ということである。天をうち狙うのに地の位置を・様子を偽っていては天までの距離が適切に測れないのだ。自分と上手く付き合う。自分のことが嫌いになるようなことをしない。上手くいかない自分を許す。最初から最後までの長い付き合いだ、楽しもうじゃないか。
以上、ケヤキSOHOでした。
脚注
- 田中英高、“(1)起立性調節障害(OD)”、一般社団法人 小児心身医学会、更新日不明、https://www.jisinsin.jp/general/detail/detail_01/、(参照 2023/09/05) ↩︎
- その課題は誰の課題なのかを明確にし頭と気持ちを整理するために「第三夜 課題の分離について」の章が参考になると思う。(岸見一郎・古賀史健、嫌われる勇気、ダイヤモンド社、2013、p.139) ↩︎
- 自分で自分のことを決めることに関連して。一人旅を親に一年以上反対されている女の子の相談への回答なのだけど、元気が出るので読んでみると良い。(幡野広志、なんで僕に聞くんだろう。、幻冬舎、2020、p.100) ↩︎
- 自分も実践しているシステムなのでやりたいこと探しの参考になれば。(Web玉のタマえもん、【面接や進路に役立つ】「夢シートの書き方」、YouTube、2018/01/30、https://youtu.be/iItrXHkzS5c?feature=shared、2023/09/06参照) ↩︎
- 間接参考(DJあおい、自己管理能力を身に付けるために最も大切になるのは『目的』ですね、DJあおいのお手をはいしゃく、2022/12/12、https://djaoi.blog.jp/archives/89606515.html、2023/09/06参照) ↩︎
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