背水の陣を敷いたが、うまくいかない。
失敗した自分に罰を与えても、反省しない。
素敵な自分を目指しても、継続して取り組むことが出来ない。
だって出来損ないの私も愛して欲しいだろう?
後がなくても頑張れない自分も、改善に向けて動けない自分も、素敵じゃない自分だって愛して欲しい。
ここに居る。ここに存在しているのに、存在を無視され否定されたら、そりゃ苦しい。
泣いて叫んで失敗することでしか、自分の存在を主張できないのだから、意地でも成功なんてしてやることは出来ない。
自分にしか迷惑を掛けないのなら尚更。
出来損ないの自分を無視したままの自己実現なんて、存在否定に他ならない。
自分の生活をなんの利もフォローもなく他者に譲るようなもの。どうして協力なんぞできようか。
高みを目指して登ることは出来ない。
出来損ないの私が”おいていかないで”と泣いて叫ぶからだ。まるっきり幼子と同じ。
少し前までは慰めることも出来ず、出来損ないの私がへたり込むのを突っ立って見ていることしか出来なかった。
今はただ抱きしめて同じ空気を吸う。
高みに登ることは出来ないけれど、引摺り降ろすことは出来るんじゃないか?
小学校の社会科見学、国会議事堂が思っていたよりチャチでがっかりした。
4年生になった4月、今迄と違い浮かれていない自分に気がついた。7歳の時から、3月から4月になるだけでおだてるのはやめてくれと言っていたというのにね。
素敵な世界に線を引くのは簡単で、ぐるりと地面に円を描いたらインスタントなラピュタが浮かぶ。
穴ぼこだらけの世界で、うっとりと上を眺めながら生きていく。それも良いのかもしれないけれど。
問題が二つある。
一つ目は、穴ぼこだらけの世界はすなわち”面白いと思えないものばかりが存在する世界”のことで、そこでずっと生きていけるのかという疑問。
つまらない世界で生きていくことを良しとするのは、自分の人生を「つまらないものでも仕方がない」と予防線を引くことではないか? 自分で自分の幸せを願うことが出来ないのは、一度きりの人生、いささか勿体なくはないかしら。
二つ目は、先の国会議事堂のような例も同じくまつり上げ続けてしまうことだ。
宝箱の中でガラクタばかりが目だっていてはどうだろう。ふと開いた瞬間にきっと落胆してしまう。本当に素敵なものが入っていても、それでは大切に出来ないだろう。
素敵な物はいっとう輝いていて欲しくはないか。だから、腹を括って線を飛び越え自分で触れて地に落とす。自分の世界に引摺り降ろす。
素敵なままに自分の世界に引き込むこともあれば、大したことがないと知ることもある。感受性が足りずに見落とすこともあるし、経験を積んで改めて良さが分かることもある。
高度は下がったものの地表までは引きずり降ろせないもの、手が届くイメージすら湧かないようなもの。その凄みに圧倒されるのも良いだろう。それでも算段をつけてうち狙う。
なにも、ひっくり返さなくていい。ただ天を地に落とす。
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